堂小屋の大窟を探せ
あらすじ
八ヶ岳山麓の「堂小屋」では、かつて高僧が戦乱の世を避けて護摩を焚きお経を読み続けながら身を隠した大窟(おおいわや)=洞窟があるそうな。
堂小屋は緩傾斜の山麓平地で、菩薩の合掌像を思わせる「上人岩」などがある。
大窟ではかつて石仏(聖岳尊)がまつられており、大正の頃に石仏は山からおろされて、盛大なお祝いパレードのすえ佐久市臼田の相沢寺に現在はまつられている。
他にも、相沢寺には「お面さん」と呼ばれる室町時代に作られたと思われる仏面があり、伝説によると堂小屋で修行中の僧が彫った仏面が大雨で川に流されて、千曲川の臼田あたりで偶然に拾われた物との言い伝えがある。
調査記事
https://note.com/sakuhosyuraku/n/n9a417485fc98
2023年頃に佐久穂町観光協会の調査員、西澤さんが探検隊を引き連れて調査をした記録記事です。
相沢寺
堂小屋との関係が深い、佐久市臼田住吉地区にある古寺。
現在は住職がいない無住寺院ですが、地域の住民が代表して寺を管理しているそうです。
相沢寺仏面展
2026-02-28から03-22まで
川村吾蔵記念館にて特別展示が実施されていました。



展示物より抜粋
相澤寺「仏面」は、どのようにして集められたのか
・立科山麓の堂古屋(現在久穂町)にあったものを、相澤寺の僧が霊夢によって掘り出した、又は大水に流されてきて白田で拾われた・・・等々諸説ある。
・堂古屋には、八〇〇年代(平安時代)から寺があり、僧侶が住んでいて相澤寺の仏面もその堂古屋にあったのではないかとも言われている。
・堂古屋には、「上人岩」と呼ばれる阿弥陀如来仏の姿をした自然石があり、ここを念仏道場として念仏会が行われたことから生じた「伝説」と考えられる。また堂古屋は、相澤寺の位置から見るとちょうど「西」。そこに阿弥陀如来仏の姿をした自然石があったことから、そこが「西方浄土(極楽浄土)」に見立てられたのかもしれない。
聖獄尊
聖獄尊を祀る人の伝説と一致する堂小屋から相沢寺へお迎えしたのは、大正十三年十月四日。
聖獄尊は、相沢寺の神像、又は正覚さんなどの名前で呼ばれている。
聖獄尊をお迎えした時の寄付金が当時としては金であった為に拾参円が集まったことからみても、古老の話からも民衆の心もりがうかがえる。
井出 正義さんのお話
相沢寺の庭の石製神像について古老の話を聞きたいと思いたったのは、昭和四十六年であった。
この神像があったといわれる堂小屋は、幸い当時私の勤務していた八千穂小学校の学区内のうその口部落にあった。
うその口から約四粁、大岳川にそって比較的平坦な林道をさかのぼると、大岳川の本・支流の二つの川の合流点に達する。
ここから上流は傾斜のきびしい登山道である。
この付近が、十年余以前に土石流が発生してテレビ報道された場所であるが、合流点の右岸に、堂小屋地籍は狭長な、緩傾斜の山麓平地があり、菩薩の石像を思わせる「上人岩」などのある堂小屋の四十八面の仏面はここから出たと伝承されている。
ここはまた双子池・大岳に通じる修験道の行者道で、行場でもあったと考えられている。
八海山の石像(現在の相沢寺の神像)もこの付近にあったという。
大正十一、二年ごろ、営林署のトロッコ道を作る工事が行われていたとき、山人夫の食糧等の仕送りをしていた臼田町の山下順三氏が、臼田町発展のため、この神像を臼田町に移そうと考え、営林署長の許可を得て、相沢寺におろした。
この石像は、堂小屋付近、寺久保の四坪位の大きなころび石の上にあったという。
竹内喜吉さんのお話
この石造は畑八村の三里も奥からもってきた。
四月にお面さんのお開帳をすれば、向こう(鷹の口の奥の岳)にむかって(灯)がつくという話を聞いていた。
そんなころ営林署の人夫が大石の上から飛び下りたら、下に石像があって首が折れ、人夫は足を折った。
石像はこけて磨き上げたら「不動さんだ」ということだった。
九月になって三回いってみたが、それは不動さんではないので、聖岳さんという名前をつけた。
聖岳尊のお迎えは、大正十三年、営林署長が力を入れ、町中のさわぎとなった。
和尚(西方寺兼務)は馬に乗り、酒樽二本をつけて迎えにいった。
石像は竹で作った籠にのせ、白布三反で巻いてトロッコ(営林署の軌道)にのせて山を下った。途中でトロッコから五、六人も振り落とされた。
第一休憩所は畑八の大石川橋であった。
黒沢酒店ではヒョウタン形の酒ビン二〇〇本位を出してくれた。
歓迎の旗がぎっしり立っている中を、和尚を先頭に消防団、青年団が行列をつくって進んだ。
第二休憩所は高野町で、料理組合の芸妓も総出で迎え、一時間程休んで出発したが、高野町から白田まで、出迎えの人がぎっしりならんだ。
勝間には活動写真の音楽隊が出ていて、迎えられた。
相沢寺について、境内を三回まわって台上にのせた。
お開帳には郡長が先だちになり、群馬の方からもきて、南佐久中のさわぎになった。
各村から踊り念仏の人たちがきて、三日三晩寝ずに念仏を行った。
お迎え準備の品は、清集館のおじさんが、幾日もかかって夜明かししてつくった。
その年はそんなことにかかりきって、菜・大根をまく時期もおくれ、菜はさっぱりからもってしまうほどの小さなものしかとれなかった。
竹内喜吉さんのお話
お面さんのお開帳やったですよ。
三十ぐらいの年かな。
井出勝次郎さんつう人があってね。
その人が絶対権持っていたから、ずっと前にお開帳をやったけれども、それ以後お開帳をやらなかった。
わしも一番等やと二人で三回行ったな。
馬に乗ってもやると。
そんでやっぱりやったりや。
そしたらやるかっつうようなもんで、お開帳やったですよな。
そんでやっぱりやったりや。そしたらやるかっつうようなもんで、お開帳やったですよな。
しょうがないんつうやつがあるで、石で積み上げた上に、お面さんのところへ行く入口のこっちか。
八ヶ岳の裾の畑八の奥のあそこへ明かりが点々という伝説があったで。
お開帳をやったところが営林署で、あすこから材木を伐ってね、穂積の駅までトロで木を出していた。
そうしたところが、向こうで怪我人が出たもんだっていうわけでね。
営林署の人夫が休みのときに石の上へ登って飛び降りたところが、がくりしたのが昔は普通で試し飛びはよくやったらしいですな。
そういうのが転んでその上に苔が生えていたのを知らねえで飛び降りたところが、がくりしたと。
掘ってみたところが神さんだったっつうわけで、こんだ営林署長のほうから呼びかけてぜひ一つ迎えてくろと。
迎えに行くときは和尚は馬に乗って行ったい。
こっちからスルメの束一把に酒の樽二つだかね、馬につけて行ったからね。
初めて行ったときに不動さんだったつうわけで新聞に出たな。
三回目に行ったところ不動さんっつうやつは火をな……。
和尚、困っちゃったなっつうわけだ。
それでしょうがなく「きんと」という名前をつけて迎えたんだ。
音楽が先立ちでそれは賑やかだったですよ。
住吉の小路へ入って来たときに、入れねえ。
何しろ人がぎっしりで。
その門の所を、車に乗せたまんまみんなで担って入れて、三回りして高い所へ上げたんだ。
そのときは何しろ餅米を七俵も蒸かして強飯にして誰んでも出したんですよ。
相澤寺四十八佛面縁起(江戸末期に発行された「佐久郡誌草」より現記)
ここに、西の嶽の中ほど、堂小屋の岩屋に精舎あり。
岩の端にめでたき霊棚引き、岩の内に良い薫りして、もろもろの宝物がここに現出した。
阿弥陀如来のすべての人を救う慈悲の光明があざやかに山谷を輝かし、聖衆周囲に群がり、菩薩は音楽を奏でて取り巻き、和讃の声を競い、高く梵をひらめかせ、笙や笛の調べ雲に分け入り、最上の身をかがめ念仏の声に従って相澤の相澤寺に現れた。
相澤の僧夢から覚め身体の置き所もなく寺から走り出て五体を地に投げ伏して喜びの涙を流した。そして来迎の儀式をそれより始めそれを伝えたという。
その後の中興で相澤寺は河原小路へ移り、それからは来迎路と言った。
堂小屋から出現した阿弥陀如来と観音、勢至菩薩、二十五菩薩など四十八の仏面があり、平鉦には永正三年三月日の銘がある。
その後相澤寺は数代無住となって荒れたので近年は二十五菩薩の縁は十三年に一度ずつ念仏供養としてきているという。
相澤寺及佛面に関する傳説(大正八年発行の「南佐久郡志」より)
相澤寺は元醫王山の西南寺久保に有り、其頃正明寺根龍寺薬師堂地獄見堂などと云ふ寺五ヶ寺あり、薬師堂は其後小野の城山(醫王寺山嶺にあり)へ引取られ寺の跡も名のみ残りて田畑の名称となれり。
永正年中相澤寺の住僧に度々霊夢あり、八ヶ岳堂小屋と称する所より佛面四十八面掘出す。佛面供養として念佛殊の外繁昌す。
大永年中筑紫善導寺の僧来りて念佛を勧む。今なほ其鉦相澤寺にありと。(井出の旧記)
榮村上區の奥に堂小屋と称する地あり。其附近に一大寺院のありたると彼の地にて言ひ傳ふ。相澤寺の面は之より出でたるならん。
平成三年発行の「南佐久郡志」民俗編より
お面さんは三尊様とさえ三面と、ほかに四十八面の面があって、臼田の住吉の相沢寺に安置されている。
これは昔八ヶ岳のふもとの栄村(現在の佐久町)の堂小屋というところにあった。
臼田のものがいってここにしている。他町村のものが行くときびしい顔をしてちっとも喜ばない。
岩に堅く吸いついてどんなにしようとしてもとれない。
そこで臼田のものがいって相沢寺におむかえした。
お開帳のときに坊さんが三遍にのせて拝んでいる下をくぐるとたちどころに病が治り、またはやり病にかからなかった。
また、お開帳のときは昼も夜も鉦をならすのでお念仏を唱えて非常な人出であった。
雨ごいにもよくきいて、水を浴びてお祈りするときっと雨が降った。毎月五日の縁日にはきっと少しでも雨が降る。
お面さんが八ヶ岳の堂小屋にあったとき、岳のあっちこっちを舞ってあるいていろいろのことをしてどうしてもとることができなかった。
正直な人が行くと面をみせるが、不正直なものが行くとさっぱり姿をみせなかった。
ある夜、雲に乗ったお面さんの像が相沢寺の坊さんの夢まくらにたったので、坊さんはすぐ岳へのぼって堂小屋の聖人塚を掘ってみたらお面さんがあったので持ってかえった。
お寺に関係のないものが縁側に上ると、縁からおちてけがをしたこともある。
いつもお寺の奥の壇の下におさめてあって、悪い心の人が持ち出そうとすると重くなって出なかった。
お面さんの話
蓼科山大河原峠の、東側の岩の洞窟に僧が住んでいて、修業のあいまにいっしょうけんめいお面を彫り一つできあがるたびにお経をよみ、たくさんのお面をつくった。
その後何年か過ぎ、人が近づくと面は舞いあがりどうしてもつかまらない。
大変不思議なことなので村の人たちは、えらい坊さんといわれた相沢寺の坊さんと相談して洞窟に来てお経をあげてもらうと、お面は岩に張りついたので、厳重な箱に入れて相沢寺に運んできた。
お面は木彫りで顔形はみんな相違している。
御開帳の夜、蓼科山の絶壁に点々ともしびが見えたという。
それから何年かたち、ある人がお面さんのあった岩にのぼりすべて落ちたが、けが一つしなかった。
そして足元に堅いものがあり、これがはえていたのできれいにしてみると不動尊であった。
これはきっとお面さんと関係がある不動尊にちがいないと思い、臼田の中町、住吉の人たちに相談して相沢寺に迎えることにした。
迎えるときは途中の村々も大変協力してくれ、ある酒屋さんはお酒を一〇本寄付してくれた。
大きいのぼりを先頭にたてて、坊さんは馬に乗り不動尊は白い布でつつみ車にのせ、長い行列で相沢寺に着いたという。
相沢寺は昔は、臼田の西山の奥の寺久保相沢というところにあり、その後現在の場所に移ったという。
四十八面は行道面といい、その面をかぶりお経をとなえお鉦をたたきながら本尊のまわりを回る。これを踊り念仏という。
聖岳尊

堂小屋
堂 “古" 屋との表示もあり
長野県南佐久郡佐久穂町うその口地区から双子池まで続く林道をすすんだ一画に、堂小屋と呼ばれる地名があります。
林道は崩落のため途中から通行止ですが、4WD車であれば堂小屋沢のとりかかり付近までは行けます。(2025年時点)
上人岩

菩薩の合掌像を思わせる上人岩は、堂小屋のどこにあるのか?
大窟
大窟(おおいわや)=洞窟
かつて戦乱の世から逃れた高僧が窟屋に籠って生涯を過ごしたという伝説がある。
お堂
堂小屋付近には、寺久保という地名もあり、修験道の方が修行をするお堂もあったようです。
上人岩、大窟、お堂ともに明確な場所は不明なため、いつの日か堂小屋へ探索に行く予定です。
円海(円海法印)
千手院
つづく